昭和50年11月09日 朝の御理解



 御理解 第23節
 「氏子が神と仲良うする信心ぞ。神を恐れるようにすると、信心にならぬ、神に近寄るようにせよ。」

 神と仲良うする、神様と仲良うすると云う事はどう言う事。今日は私は御神前で[素直とは神の言う事をよく守るのが、信心の素直じゃ]と言う事を頂きました「素直とは、神の言う事をよく守るのが信心の素直じゃ」と。だから素直にも色々ある「もう家の子供はとっても親の言う事をよう聞きます。もう本当に素直です」とよく言うでしょう、それが素直。だが信心で言うのは、神様が言うて下さる事、神様が教えて下さる事をよく守るのが素直。しかもその素直というのは。
 「素直にて雲の上まで登る道がある」とさえ教えられるのですから、只「生まれつきあの人は本当に素直」と言うのとはだから違う。子供が親の言う事をよう聞くというのとは違う。信心で言う素直というのは、雲の上までも道がつくという程の素直。言うなら人間が神様になると言う程しの素直というのは、親の言う事をよく聞くのが素直な子である様に、神様の言うて下さる事を、素直に聞かして貰うのが素直、信心の素直じゃというのです。成程これなら雲の上まで登る道がつくんだろうと思いますね。
 そしてからこの神様はもう決して無理難題を言いなさる神様では決してないのですから。「あれは食べちゃならん、こうしちゃならん」と仰る様な神様では決してないですからね。教祖様の信心の、他の宗教家と言われた方達、また宗祖と言われた方達は皆何と申しますかね、いわゆる出家を致します。いわゆる坊さんになると言う事ですね。家を出ると云う事です。そして生臭気も食べなければ、妻帯もしない。
 そしてその道を極めて行こうというのが、まあこれは仏教に限らないですけれども、もうほとんどがそういう言わば修行を致します。そこから神の道、仏の道を解ろうというのが一般的です。教祖様の場合はそれと反対です「此方の行は家業の業」と仰る様に、家内を持ち家庭を持ち、その中に修行を見いだし、言うならば、素直な心で神様の御教えを生活の中に行じて行くというのが、金光大神の道なのです。
 ですから本気で、私共がね、素直に神様の言う事を聞けると言う事が、とりも直さず、仲良うすると言う事じゃないでしょうかね。神と仲良うする信心。毎日毎日参りよります。毎日毎日拝みよります。まあ何時も拝んで何時も神様の側におりますと、言うなら私共の様に、朝から晩までこうやって御結界に奉仕させて頂いて、神様の側にこうやっておる訳です。だからそれが必ずしも仲良うすると言う事じゃない。
 いかに神の前に座っとっても、拝みよっても、神様の言う事は聞かずに、只自分の言う事だけを神様に聞かせようとする様な信心は神と仲良うする、いかに参りよっても拝みよっても、神と仲良うする信心じゃない。教祖様の御教えの色々とある、金光大神御理解抄というのをです、開かせて頂いたら、ここんところを頂きました。ちょっと読んでみましょうかね。『神があっての氏子、氏子があっての神じゃによって、病気・病難をはじめ、何事も非常、平生にかかわらず、神に祈りをかけよ。
 信心は字に書いても、神の心とも書くから、常平生、神様のお心のようにして信心するのが信心じゃ。手を合わして拝むばかりが信心ではない。一心とは一つの心と書くから、二心のうろたえ心を出さずに、天地金乃神一筋に取り縋るが一心じゃ。すべて充分のおかげは、神心と一心でなければとれんぞ』とあります。手を合わして拝むばかりではないと。一心とは一つ心と書くから、二心のうろたえ心。例えばそういう、例えば二心的信心と言ったものは、もう勿論仲良うする信心じゃありませんよね。
 誰とも仲良うする、彼とも仲良うするというのは一心じゃない。一心で仲良うとは神様一心と取り縋る事とあります。同時に非常平生に関わらずと。いろんな事があった時だけの神様じゃなくて、何時もがそうでなからなければならない。今日御祈念の時に御心眼に頂いたことなのですけれども、[輪投げがありますね子供の輪投げ。それがサッサとこう誰かが随分離れた所から投げよると。百発百中棒がらは輪でいっぱいになった。掛かっておる]所を頂いた。
 どうでしょうか皆さん、なら輪投げなら輪投げをして、そして百発百中ぱぁっと入るなら、もう全然面白さはなかろうと思うですね。一生懸命狙いを定めてするけれども、入ったり入らなかったりする所に興味があるのです。信心もそうです、自分の思うごつばぁっかりなる事が信心と云う様な事では、信心の有難さは全然ありません。思う様になかったり、思う様にならなかったり、そこに思う様にならなかったり、もう何とも言えん素晴らしさが有るのです。
 信心をさせて貰うてから、体験する事ですけど神様にお願いをし、お取次を頂いて自分の思う様になる事だけが、おかげという信心では神様と仲良う出来ません。神様と仲良うと言う事が分る事が、それこそあれもおかげこれもおかげ、お願いした事がお願い通りになる事もおかげなら、お願いした事がお願いした通りにならなかった事がおかげと言う様な信心こそ、神様と仲良うする信心じゃないかと思う。
 ある人が見えてもうとにかく嘘をつく事が、所が仲々その人が嘘をつくけど、仲々愛嬌があって、それで「もうあげな人と付き合いよんなさると大きく騙されて、ろくな事はない」と注意する人があったという。そしたら私はあれに惚れ込んどるのだから、あれから騙される分な苦にやならん、という話を聞いた事があります。もうあれからなら騙されてもよか。それくらいに惚れ込みがあって、始めて神と仲良うする信心。
 もう親先生が仰って、右になろうが左になろうが、本当にそれが有難いという頂き方が、本当に出来た時に、親先生と仲良うする信心と言う事になるのじゃないでしょうか。ほんな都合の良いときだけは親先生、自分が都合が悪ければ反対「もうあげな所には参るな、ろくなことはない」と。悪口さえ出てくると言う人もある。こげな事は一番いかん、「もう親先生からなら、幾ら騙されたっちゃよか」と言う位な信心が、親先生と仲良うする信心。金光大神の教えて下さった事を守らせて頂いて。
 右左になる事は、もうそれはあなた任せであるという時に。初めて金光大神と仲良うするのである。神様の教えを本気で守らせて頂いて、右になろうが左になろうが素直に素直に、それがおかげだと解らして貰う信心になった時に、始めて仲良うする信心と云う事になるのです。そしてどう言う事になるかというと、自分の思う通りになる事だけがおかげでなくてです、思う様になる事もありゃならん事もあるけれども。
それを有難いと、愈々神様に近づいて行く信心させて頂く時にです、初めてそれこそ夢にも思わなかった様なおかげと云う事になるのです。だから信心というおかげというのはね、私共の人間的な姑息的な、所謂目先目先の利益とか、都合のよか時だけに終始すると言った様なものじゃないです。信心とは勿論生涯掛けてするものですから、生涯をかけて見て初めて解るのです。
 「あああれもおかげじゃった、惟もおかげじゃった。願うても願うてもおかげにならんと思いよったが、こういう夢にも思わなかった様なおかげの展開にはなって来た」と喜ばれる信心がそこにあるのです。お願いしたお取次を頂いたらおかげを頂いた。次にはおかげを頂かじゃった。そりゃ運が良かったつじゃろうと言う様な考え方をする人がある。そうじゃないですね。
 お取次を頂いたら、もう起きて来る一切の事がおかげと頂けれる素直さ、そういう素直さが雲の上まで登る道であり、神様と仲良うするのであり、そういう心が信心でいう素直だと私は思いますね。一遍何の稽古でもよいですよ。わが家の事だけじゃありませんよ、ゴルフならゴルフでもそうです、自分の思う通りに玉が動くなら、こげな面白い事はなかろうと思うです。魚釣りに行って、投げ込みや釣れる。投げ込みゃ釣れるなら、もう全然魚釣りの値打ちはないです。
 じぃっと浮きを見といて、まあ今日は不漁であっても、何尾しかとれなくてもです、矢張り釣り三昧と言われる様に、三昧境が開けて来ると言う子とです。信心もそうです。朝晩の御祈念をさせて貰う、特に夜の御祈念なんかには、言わばお勤めをさせて頂いておるとです、もう有難うして有難うして前を離れられない、神様の前から立とうごとなかごとなって来る。
 それが仲良うする信心です。もう離れようごとなかごとなって来るのですから、それを信心三昧と言うです。信心とは三昧境を拓かなければ駄目です。只拝むというても都合のよか時だけ拝むと言うのでは駄目です。私は昨日はある人に話した事ですけど、二十年から信心なさってる方で、もう恐らくは夜の御祈念なんかは一家中で、一生懸命お祀りしてありますから、御祈念しよんなさるじゃろうと思い込んでおりました。そしたら御神前の御三宝が右向いたり左向いたりしとる、そんなお知らせを頂いた。
 どう云う事じゃろうかと私は思わせて頂きました。とても朝晩拝みよるならば、とてもそげな事があるわけはないですね。そりゃもう汚れとるなら拭きもしよう、よごうとるなら真っ直ぐにしよう、お榊が枯れとるなら新しいのにしよう、いつも拝みよらんばいのと私は思いました。だから聞いたら、そこまでは行っとりまっせんと言うのです。永年信心しよってから、朝晩拝まんてんなんてんもう私はビックリしました。
 これは一遍、ここの御信者さん一人一人に聞いて見ようと昨日はほんにそう思いましたよ。もう当然出来ている筈と思う事が、只自分に都合のよい時だけポンポン手を叩いて拝みよる様にあるばってん、もう朝晩ほんとに言わばお勤めです。ほらもうお三宝は右向き左向きしとる。そしてお神様をお祀りしとる、自分の都合のよか時だけ拝む。これは神様と仲良うする様にしておっても、神様と仲良うする信心じゃない。
 もうそりゃ石炭箱の様な所に入れて拝んどっても、天地書付を柱に貼って拝んどっても、本当にそこん所の信心が出来よる、こりゃ形の上ですけれども、これは出来なければ嘘。私共はもう、これは子供の時からですけれども、北京におりました時分にです、家内の母が申しよりました。「もう家の父ちゃんばっかりは、感心なこっちゃある、どげん酔って帰って来たっちゃ御祈念だけはする」これは母がたまがっとりました。
 もうぐでんぐでんに送られてしとったっちゃ、やっぱり口をゆすいで手を洗うて、御神前で大祓を一巻上げなければ絶対寝らんです。だが酔うとるけん間違う。そうするとちゃんとその前に寝てしもうとる。また眼が覚めてまた上げる。これだけはもう絶対のものでした。だから普通の御祈念なら、御祈念をさして貰うと、なら家内の母が後から拝む様になり、家内が拝む様になり、子供達が拝む様になっておりました。
 もう本当にです、晩なら晩の御祈念に、もうあそこの御祈念が始まったけん何時じゃろうと近所の人が言うくらいに、それこそ行のごとと言うでしょうが、天津祝詞大祓を声高らかに一家中で拝まして貰うという信心。そう言う様な所から、神様と仲良うする信心は生まれて来ると思うです。そして今日申します内容的にはです、右になろうが左になろうが、それをおかげと実感出来る。
 自分の都合の良かった時だけがおかげ、でなかったらおかげでないと言うなら、それだけで神と仲良うする信心ではない。もう金光様から騙されるなら、親先生から騙されるならもうよかという位にです、べた惚れに惚れとかねば、神と仲良うする信心じゃないです。そこからです私は神を恐れる様な信心ではなくて、愈々神様との仲というものが、それこそ密の様になって来る。密なるものになって来る。
 成程素直心とは信心で言う素直心とはです「神様の教えて下さる事を、よく守るのが信心の素直じゃ」と言う様に教えを本気で守らせて貰う、拝ませて貰うにも、今日申しました様な、言わば拝み方をもって神様へ近づいて行く。お取次を頂いて起きて来たことはです、右になろうが左になろうが、そこんところに味わいが出て来るような信心。輪投げをするのに百発百中。
 是が入るならば、もうそこに妙味と言う様なものは、言わば今日は三昧境と申しましたが、三昧など生まれて参りません。三昧の心というものは、釣れようが釣れまいが、すうっとこう釣り糸を垂れておる、そこに根気も要りますけど、その事が楽しいと言う事であって、釣三昧です。お互い信心三昧、自分の都合のよかごとばぁっかりが三昧じゃない。成ろうが成るまいが有難いという心を拓く事が、神と仲良うする信心だと思いますね。
    どうぞ。